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「東邪」「西毒」「南帝」「北乞」と『射英雄伝』(2) 

射雕英雄伝〈4〉雲南大理の帝王 射雕英雄伝〈4〉雲南大理の帝王
岡崎 由美、金 庸 他 (1999/10)
徳間書店

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(1)より。


四方位+1の機能

そしてこれらの作品の中での位置、役割ですが、基本的には『素朴な正義感溢れる少年郭靖に、世間の複雑さや価値観の多様さを教える』というのが機能でしょうね。
メインの”成長”ストーリーの舞台装置。誰か楊康にも教えてやれよという感じもしますが。(笑)

・・・・ああ、でも楊康には郭靖と逆方向の教えが必要な気がするから、それには中神通の不在が痛手になるか。そう考えると随分奥深い設定になりますが、多分気のせいでしょう(笑)。ていうか丘処機、気付いてるかどうか知らないけど、あんたの弟子はちゃんとあんたの「力ありきの思想」を受け継いでると思うぜ?(かといって馬じゃなあ。)

話戻して。
ただし単にその為に作られたというには余りにこの”脇役”陣は豪華&魅力的過ぎるので、何らか独立の意義付け・イメージが金庸の中にはあったんだろうと思います。それを僕は(価値観の)”曼荼羅”と漠然と表したんですが。
そういうものを全面展開する気があったかというとそれはちょっと疑問。「?サーガ」とかにしないと無理ですよね。だから”計画倒れ”だった『郭靖と楊康の”合わせ鏡”』とは違い、これは最初から基本的にこの程度のものだったのだろうと。

ただ一方である意味で凄く金庸が本来的に言いたい、表現したい観点・感覚ではあって、理論化は不十分でもそれぞれの描きこみ自体はかなり熱入れてやったのではないか。
それのミニチュア版、普及版が『郭靖の成長』であり、『郭靖と楊康の合わせ鏡』であるとも言えるし、またそっちに熱を入れ過ぎて(笑)郭靖と楊康の関係の描写がお座なりになったとも言えなくもないかなと。

”曼荼羅”を幻視しつつ郭靖の「教育」にあえて専心したのか、それとも教育装置に思わず金庸の脳の中身が漏れ出て(笑)命が注がれてしまったのか。これも同時並行やや前者優位くらいが僕の感触。
ていうか僕自身がその”曼荼羅”の可能性/予感に魅惑されてしまっているので、それでこんな潜在的な”ストーリー”をわざわざ3つ目として並列してみたわけですね。1・2・3が段階的に完璧に組み合わさった夢の『大・射英雄伝』というか。

*後に金庸は『天龍八部』で、こちらはかなりメイン要素として”価値観曼荼羅”的なものの織り上げにチャレンジするわけですが、先取りして言うとそんなに成功しているようには僕には見えませんでした。


(参考)金海南による”4人”の基本性格

自分でもやってみようかと思ったんですが、それほど気の利いたこじつけが浮かばなかったので(笑)こちらで代用。(ただし少なくとも”東邪”についてだけは、『神』編で娘の黄蓉とそれに楊過を合わせた3人の比較としてかなりリキ入れてやる予定なので、お楽しみに。)
まあ今回の僕の”説”としては、上で言った「青龍・白虎・朱雀・玄武」の”四神”との重ね合わせというあたりで勘弁して下さい。

4巻の訳者あとがきより

東邪と西毒 ?”悪”をめぐって

東邪・黄薬師
この世の悪と偽善を容赦できない性格で、それがあまりに強烈であるため、自分の心の中に潜む悪と偽善に気がつかない。

西毒・欧陽鋒
悪になりきろうとするあまり、自分の中の善なる要素に気がつかない、または気がつこうとしない人間である。

南帝と北乞 ?”欲”をめぐって

南帝・段皇帝(一灯大師)
皇帝でありながら凡夫と変わらない嫉妬の念に苦しめられている。

北乞・洪七公
乞食でありながらおいしいものに目がない美食家。


代用しといてナンですが少々つっこみ。
まず東邪と西毒ですが、西毒の「悪になりきろうとする」、しているという基本定義はなかなかのものだなと思いました。後半はそこから自然に導かれるものですが。ただ東邪の方はやや説明不足というか、むしろ悪ではなく”偽善”への憎しみに焦点を絞った説明が必要なのではないかと。
ていうか別に悪は憎んでないと思います。そうではなくて・・・・とまあこれは『神』編で。

次に南帝と北乞ですが、こちらはややだから?という感じ。南帝は確かに女難にケチをつけられましたが、あれはたまたま不幸にしてそうなったのであって、南帝個人が”性格”として特に嫉妬深いとは言えないと思います。
一方の北乞も、食いしん坊の美食家ではありますが、それは作中では特徴ではあっても”欠点”や”偏り”という風には見えないと思います。例の「自ら指を食い取った」エピソードが具体的に語られれば印象も変わるんでしょうが。(そう言えばここは金庸の隠された「構想」が感じ取れる箇所ですね)

・・・・とはいえこれは金海南氏の読みの問題と言うよりは、単に金庸がそれほど十分には書いていない、完成度の高い”図式”にはなっていないというそういうことだと思います。だから僕も解釈を断念したわけで。
ていうか南帝って中神通・王重陽とカブりますよね。さっさと出家してれば(笑)彼があの位置にいてもおかしくはなかったような。


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