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『書剣恩仇録』各論(4) 

(3)より。


作者と作品/まとめ


引用付け足し。

それはいっぺんにさらけ出さないようにすべきだったんですが、(最初の頃は)うまく書けてないんですね。登場人物が最初から善人、あるいは悪人として完結しているのはいいことではありません。

きわめつき武侠小説指南 p.81)


このように作者自身にもある種”失敗作”的烙印を押されてしまっている『書剣恩仇録』ではあります。
僕なりに弁護(笑)を試みて来ましたが、努力して常により良い作品を書こうとしている作者の立場としては、やはりこういう評価になるのは仕方ないでしょうね。

ただ作者自身も含めて、後の作品を知っている後代の読者はどうしても後知恵で物を見ようとしてしまいますが、一方で常に作品はその時その時単品として書かれるのであって、それは決して「歴史」的パースペクティヴに還元し尽くせるものではない。
また往々にして作者は過去作を恥じたり終わったものだと片付けたがり、あるいは金庸自身が実際に繰り返し行なっているように(笑)『改訂』みたいな作業をやりたがるものですが、読者にとっての、またあえて言えば客観的な価値はそれとはまた別のものです。技術的巧拙=作品の価値ではないし、拙かろうとなんだろうと、どちらかと言えばオリジナルな形で残しておいて欲しいと願うものだと思います。リベンジは次回作でお願いしますというか。(笑)

一言で言えば作者は作者、作品は作品というか。だからこそ、こういう「評論」の類も成立する余地・意義があるんだとも言えますし。
失敗してるから失敗作とは限らない、増してつまらないとは限らない。


『書剣恩仇録』と『鹿鼎記』


(その3)で陳家洛について書いている時にふと思ったことなんですけど。
この処女作と最終作は対照的だけど似てるところがあるなと。特に主人公の性格を通じて。
どういうことか。

つまり『鹿鼎記』の主人公”韋小宝”は、娼婦の息子のろくでなしという意味では貴公子陳家洛と対照的ですが、一方でいわゆる武侠小説(の主人公)的な典型的「英雄好漢」ではないこと、それにも増して最初から最後まで目立った「成長」を見せないタイプの主人公であるという意味で、実はこの両作の主人公は好一対的な存在と見ることが可能なのではないかということです。

・・・・分かる人にはもう分かってますね、僕の魂胆が。(笑)
そうです、だから『鹿鼎記』(’69)と『書剣恩仇録』(’55)はそれぞれに、間に挟まった金庸の典型的な「武侠小説」群とはズレた作風を持ち、『鹿鼎記』が武侠小説をまとめて相対化した”ポスト武侠小説”なら、『書剣恩仇録』は言わば”プレ武侠小説”として対で考えてみるとバイオグラフィ的にはきれいだなという。勿論『書剣恩仇録』は『鹿鼎記』のようには、意識的にズラされて書かれているわけではないわけですが。

ただデフォルト・無為自然(『書剣』)→創造・構築(メインの作品群)→解体・自然回帰(『鹿鼎記』)という流れは、言われてみれば当然のことかなと。(言ったのは自分ですが・笑)
混沌から生まれたものが混沌に帰って行った。ならばやはり、永久に金庸の新作は書かれることは無い?!という悲しい結論になりそうですが。(笑)


こんなところで。

(以下は文庫版)
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