スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

金庸と『水滸伝』 ?(2)ストーリー構造 

文体編


ストーリー構造について

むしろストーリー”無構造”についてみたいな話なんですけどね。

『水滸伝』そのものについては、小学生くらいの頃にかの横山光輝漫画版
横山水滸1
水滸伝〈1〉 (1977年) / 横山 光輝

を途中まで読んでいたので、あらかた、少なくとも今読んでいる完訳版2巻や3巻の範囲でならストーリーは知っているわけです。ゆくゆくどうなるかも耳情報としてならだいたい。

にも関わらず読んでいると非常に頼りないというか、闇夜を進んでいるような気分になります。
それはつまり、この話はどこへ進んでいるのか、そもそもどこかへ向かっているのか進んでいるのかいないのかというそういう感覚です。(笑)

これは恐らくは水滸伝の、or”講談”スタイル特有の、各パート・エピソードと「全体」や「本筋」とのゆる?い関係によるのだと思います。別に破綻しているわけでも、”?サーガ”みたいに分量的に凄まじく脱線しているわけでもないので、あくまで感覚的なもの、語り手の意識的なものなのだと思いますが。
進んでないわけではないんだけど、中心や軸との緊張感のある繋がりが感じられないので、どうしても普段読んでいる近代的な小説の読者の感覚からするとほったらかしにされてるような不安感がある。

やはり”作者”の不在ということなんですかねえ、作者と読者の一対一の対話、内面的な繋がりみたいなものの稀薄さによる不安感。勉強不足でよく分かりませんが。


ともかくこれは、金庸の小説を読んでいる時にもちょいちょい僕が感じることです。(これが本題)
勿論程度としてはだいぶ軽いですが。でも例えば同じ現代武侠の古龍と比べてもそれは顕著。

具体的にはそれは一種の”中だるみ”として現れることが多いです。ここの末尾の(3)で書いたような。
より根本的なことを言うと、金庸は確かに面白い。一つ一つのシーン、一つ一つのエピソード、それらの趣向の楽しさは抜群。でも・・・・ぶっちゃけ大部分が「余談」みたいなところがある(笑)。エピソードのためのエピソードというか。本当に必要なもの、本当に中核的なものは少ない、あるいは分かり難い、あるいはかいつまんじゃうと大した話ではない(笑)。作品にもよりますが。

だから長い長いと言っても、「壮大」とか「大河ドラマ」みたいな感じはあまりしないんですよね。ていうかあんまり”流れ”てないし、この河(笑)。むしろ池や淵が沢山あって、そこにそれぞれヌシがいるみたいなそういう風景。

・・・・と、ここまでが僕が直観のみで書いた文章



岡崎由美『漂泊のヒーロー 中国武侠小説への道』

漂泊のヒーロー―中国武侠小説への道 漂泊のヒーロー―中国武侠小説への道
岡崎 由美 (2002/12)
大修館書店

この商品の詳細を見る

その後図書館から借りて来たこの本の中に、そうした僕の”直観”を説明してくれる、こちらは(笑)実証的な記述があったので補強しておきます。
最初から読めばいいようなものなんですけどね(笑)、でも僕の書き出すモチベーション自体は常に直観というか衝動的なものなので、どうにも。というわけで(1)もちょっと補足してあります。


『水滸伝』のそもそもの構成

これらのリストが作られた時代、『水滸伝』はまだ現在見るような長編ではなく、「花和尚」だの「青面獣」だの、好漢一人一人を一席読みきりで語る銘々伝の段階である。(p.11)


なるほど、それをまとめたものだから、破綻も脱線もしていないのにバラバラに感じたのか。


『水滸伝』の視点、語り手と聞き手の関係

物語は講釈師が聴衆に語りかける形式で行われるから、物語を語る視点は三人称叙述である。(p.209)


これも(”作者”の不在という)僕の直観には沿っていると思いますが、ある意味(水滸伝を)読めば分かることなので、さっさと気付くべきだったか。(笑)


ちょっとゴタゴタしてますが、次”講釈師”としての金庸編でまとめ。


サイトトップへ
スポンサーサイト

コメント

>金庸という人は、極度に理性的で打算的なタイプに思える

個人的性格として「打算的」というよりは、”知”のスタイルとして「形式主義的」なんだと思います。軍人の謹厳実直みたいなもので、立場が要求するパーソナリティというか。
その”立場”というのが大雑把に言えば例の中国の伝統的知識人というやつで、武術にしろ道徳にしろ、くどいくらいにきっちり理論的に形式化しますからね中国人は。ほぼ強迫観念。

その一方でとんでもなく感情的でもあるわけですが、それは差し当たっては先人が定式化した理論体系の流れに沿って出て来る。その範囲のものなら金庸は粛々と処理して、それで終わり。
それ以上のものがあることもその価値も金庸は知っていますが、わざわざ手順を飛ばしてまでは描かない。

>理性や打算を超えた部分で、「感情」で書くことのできた作品

だから感情”で”書いたというよりは、定型を越えるような感情”を”書くだけの舞台設定が整えられた、そういう作品なのではないかと。
注意してればどの作品でも特権的な一瞬には爆発的なものが見えたりしてますからね。ただそれが作品のメインのトーンにはならないですが。

単純に性格傾向として迂遠なところが見えないわけでもないですけど、基本的には作法の、作家としてのダンディズムの問題だと思います。”実益”で”趣味”をうまく正当化している人というか。(笑)

>何がメインか分からなくなった鍋物

次の”まとめ”編が一つの答えになるかもというそういう予定。(笑)

>単なるキャラ萌えなのかも(笑)

まあ感情移入が激しければ、自然キャラ萌えもするわなというそういう感じですかね。萌えるに足る魂の入った”人物”が描けたと、そういうことで。

こちらのご意見を読んで思ったことですが、金庸の小説には、いろいろぶち込んで何がメインか分からなくなった鍋物、のような物語が多いですよね。エピソードが多けりゃゴージャス、みたいな。これって満漢全席的な発想なのかなあ。

>この2つに神キョウを加えた3つについては、金庸は「感情の激しい作品」(ゆえに好きだ)ということを2箇所くらいで言ってましたよね

金庸の講演録やエッセイを読むと、「自分キャラでは楊過と喬峰と小昭が一番好き~!」と何度か言ってるので、上記三作を好きなのは、あるいは単なるキャラ萌えなのかも(笑)
……まあ冗談は置いといて。
以下は邪推ですが、私は金庸という人は、極度に理性的で打算的なタイプに思えるんですよ。だからそういった理性や打算を超えた部分で、「感情」で書くことのできた作品(上記3作品)を愛してるんじゃないかと。


>ところで神キョウは休養期間中(笑)に普通に進めちゃっていいんでしょうか。

あ、お気遣いありがとうございます^^でも休養中であれ、こちらには顔を出させていただきますので~。なるべく早く更新願います(笑)

ふむふむ

天龍、イテンというラインアップについて言うとすれば、ただでさえ(笑)ちゃんとまとめてもバラバラというかテキトーに見える傾向のある金庸が、更に広げた(天龍)&複合的な構成にした(イテン)というそういうことがあるのかなと思います。

それとは別に、この2つに神キョウを加えた3つについては、金庸は「感情の激しい作品」(ゆえに好きだ)ということを2箇所くらいで言ってましたよね確か。
思い入れの分突っ込み過ぎorパートが立ち過ぎるとか、そういうこともあるかもしれませんね。イテンは面白いですが無闇に”巨大”という印象がありました。

ところで神キョウは休養期間中(笑)に普通に進めちゃっていいんでしょうか。3ヶ月くらいなら余裕で他のこと書いて過ごせるだけのネタはありますけど。(笑)
すぐ書くとしても多分来週からになると思います。その前にもう一つ二つまとめて/確認しておきたいことが。

>本当に必要なもの、本当に中核的なものは少ない、あるいは分かり難い、あるいはかいつまんじゃうと大した話ではない(笑)。

天龍八部やイテンを読んでて、面白いのに惹かれないのはなぜなんだろう。。。と思ってましたが、↑の文章でやっと分かりました^^テーマ性があるようでないような感じが、散漫な印象を与えるからなんだなあ。

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://kinyo.blog66.fc2.com/tb.php/45-18a9b824

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。