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”講釈師”としての金庸 ?金庸と『水滸伝』まとめ 

文体編ストーリー構造編


金庸の異質性

引き続き岡崎由美『漂泊のヒーロー』から引用。以下すべて。

「武侠小説がこれほど人気のあるわけをよく聞かれます。もちろん原因は様々ですが、ただ最も主要な要因は、武侠小説が中国的な小説で、中国人が中国的なものを好むのは当然だからだろうと思います。」(p.260)


前2回で僕は『水滸伝』について、
1.いわゆる「講談調」の古風な文体が、慣れるとかえって気持ちがいい。
2.基本的には一本のストーリーであるのにも関わらず、エピソード一つ一つが各々勝手に存在しているようで、たまに道に迷っているような気分になる。

という特徴を挙げ、それが金庸を読んでいる時の感覚と共通するものが大いにあるということを書きました。

文体編の補足部分(末尾)に書いたように、実際には金庸/新派武侠は「講談調」で書いたりはしていません。
また『水滸伝』の上記2.の特徴の主な理由である、あちこちの講釈師があっちで一席こっちで一席とバラバラに語り継いだものを後に一本のストーリーとして編集したというような特殊な(しかし伝統的でもある)成り立ちを金庸の作品が持っているわけでもありません。あくまで一人の現代の作家が、一つのヴィジョンで一気に書いたものではあるわけです。

もとが新聞連載小説だったせいか、緻密なストーリー構造とは言いがたい点もある(p.254)


と、これは定評ですが、ただ日本でも歴史/時代系の長編名作の多くは、吉川英治作品などを筆頭に「新聞連載小説」として書かれていて僕も少なからずそれらを読んでいるわけですが、金庸のようなあからさまなバラバラ感を感じさせられたことはないんですよね。

このように明確な理由が見当たらないにも関わらず、なぜこうも古の水滸伝と大して読み味が変わらないのか。(笑)


”現代の講釈師”としての金庸

答えとしてはあっさりしていますが、要は金庸がそう書こうとしているからだと、そういう”味”を出そうとしているからだと、そういうことだと思います。「原因」とか「失敗」とかいうより、「仕様」だと。
それには

1.ヨーロッパ小説の影響を受け過ぎた(当時の)中国文学界へのアンチテーゼ的意図。
2.金庸自身ヨーロッパ小説の影響は十分に受けているが、根っ子のところでは結局中国的伝統的な小説こそが金庸にとっての「物語」である


という2面があるだろうと思います。1.は意識的動機、2.は無意識的動機、みたいな話ですか。

1.は勿論よく言われることですが、2.の根深さ、理解の深さこそが金庸の金庸たるゆえんだろうと。殊更「講談調」にしなくてもそういう味の文章が書け、普通の作家なら研ぎ澄ましてまとめないと落ち着いていられないような一見バラバラなエピソード群を、それもありなんだと鷹揚に包み込んでそういうものとして成り立たせてしまう、それを可能にする、理論以前の自然な伝統・古典文化との一体感
なかなか余人の真似できるものではない。育ちが違うと言ってしまえば身も蓋もないですが。(笑)

ともかくそういう金庸の作品を、それなりに年季を積んだ(はずの)現代日本の小説読みである僕が読んだ時に何を感じるかというと、一言で言うとそれは他に類を見ない「解放感」みたいなもの。

面白いもの秀れたものは沢山あるし、沢山読んだし、そうした数多の他の現代エンターテイメント系作家一人一人と直接比べて「金庸こそが最高だ」なんてことを言う気はないし、言う必要もない。
でも金庸には金庸にしかないものがある。それはそうした多くの作家の作品との対話・格闘の中で自然に磨き上げられた批評性や警戒感、褒めるにしろ感動するにしろ、いずれその枠組の中でそれとの対応で行われることがほとんど定められているその限界、それをまさかという乱暴さ、あっさり感で束の間飛ばしてくれる、そういう力、驚き。

その力の源が『水滸伝』との対比で直観/再確認した金庸の”異質性”、伝統文化・文学との特権的で直接的な繋がりなのではないかなというそういう話です。
それと知らずに行われる近代文学の脱構築、心の準備が無いまま連れて行かれるタイムトラベル。気付いた時は既に脳味噌が飛ばされている、ガードが外されている。


例えば武侠小説の世界で並び称される古龍も、僕は大好きでほとんど天才だなと思っていますが、しかし金庸のような意味での驚きはないんですね。想定内というか。それこそここの”プロフィール”欄に名前を挙げた、夢枕獏や菊地秀行の隣に行儀よく収まっていてもそんなに違和感はない。
そういう意味でやはり金庸は”最高”であるかどうかはともかく、特別であると。特殊、でもいいですが。中途半端に頭を使ったり常識を入れて読むと読み誤る危険が大きいと。そういうものだと思って読むべきだと、そう思いますね。金庸自身は案外天然なんじゃないかと疑ってる部分もあるんですが。(笑)

なにより、金庸の作品には面倒な文学理論を飛び越して、ストーリーテリングを楽しむという物語の最も原初的な快感がある。(p.254)


おじいちゃん、今日もお話聞かせて?と、ともかくもついついそういう気分にさせてくれる、現代の講釈師金庸先生であります。


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