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「技」と「力」と「気」と「心」 ?特記事項 

と、その前に、この分類を把握する上で必要と思われる特記事項について書いておきます。(より)


・「技」と「力」 ?日中比較

本来「力」と「技」はそれ自体独立して対比されるべきものかもしれませんが、ここでは省いてあります。
それはまず分類の軸である中国ものの世界では、「技」>>>>>(越えられない壁)>>「力」というのが自明の前提であることによります。どんな馬鹿力も正統的な技術を身につけた武芸者の前では、仇役以前の引き立て役状態です。

日本でも筋肉馬鹿が主役・重要な役を張り続けるというケースはレアで、そういう意味では普遍的なパターン/願望であるのでしょうが、それにしても中国ものではその描写が極端で、技と力、または玄人と素人の間には身分差別に近い深い溝が存在するように感じられます。

直観的にはこれは中国特有の「文明」至上主義、具体的には理屈っぽさ、理論信仰の反映のように思えます。つまり「技」「力」は、「文明」「文化」「野蛮」「自然」の対立図式に対応している。「中華」対「周辺諸国」というか。前者は常に後者より優れている。勝つ。
日本で言うところのいわゆる”柔よく剛を制す”的な技術論は、あくまで「技」=「文明」の枠内での相対比較の話、そこで初めて議論の俎上に上る。


・「力」と「気」「内功」

しかし中国もの/金庸の世界の中で、「力」的要素が(「技」の枠内で)大いに戦いの動向を決することもあって、それが「気」「内功」という概念と組み合わされた時。

「気」や「内功」自体が何かというのは、うるさく言わなければ『ドラゴンボール』で「気」と言われているあれと基本的に同じです。修行によって内側から出て来るある種のエネルギーであり、”増え”たり”大きく”なったりする量的な概念である。
違うのはただの休養や仙豆(笑)によって機械的に回復したりはせず、あくまで努力によって、”気を練る”という一種の瞑想により蚕が繭を紡ぐように(?)自分の中に溜め込まなくてはならない。だから数十年かかって溜めたものを一回の使用で消費してしまったりします。

そして大事なのはその「気」「内功」の力が、一種の擬似筋力として攻撃力や耐久力を決定的に左右することで、「内力」などとも言います。まあこれもドラゴンボールと同じですね。
ここにおいては逆に「力」が「技」の優位に立ち、技術が劣っているまたは全くなくても、内力で大きく優位に立っていればやられることはまずなく(裏技もありますが)、またいい加減な打撃やほとんど触るだけでも大きなダメージを与えることが出来ます。

摩訶不思議ではありますが、直感的にはむしろこっちの描写の方が自然な感じに見えると思います。技だけの非力な者が怪力を寄せ付けないという上の描写よりも。
ここらへんはまあ何というか、中国人なりの建て前(技)と本音(力)みたいなそんな感じ。


・「気」「念」と「心」

「気」というといかにも中国的ですが、もう少し現代的擬似科学的な概念として、「念」という語が日本ではよく使われます。先ので言えば『ハンター×ハンター』や菊地『妖魔』などがその代表。精神力または超自然力の物理的利用という意味で、この両者は(フィクション上では)基本的に同じものと捉えて差し支えないと思います。

問題はこれらと「心」、あるいは精神そのものとの関係で、「心」の力の反映という意味ではこれらの重視は精神面の重視になるわけですが、一方でそれを物質的比喩で使っているという意味では軽視、または現実への直接的適用の断念ともとれるわけです。
実際これらの境界的概念の使い方には、作家の力量及び世界に対する態度が如実に現れるので非常に興味深いところです。使うか使わないかということも含めて。

先取り的に言うと『ハンター×ハンター』の富樫義博の「念」概念の描き方、それにそうした境界概念を用いずに心や人間性を格闘描写の主役に、しかもあくまで技術論的体裁で描き切っている古龍、この二つは天才的な事例だと思います。


・・・・金庸・『笑傲江湖』のアンビバレンツ編につづく。


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