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「剣術」流と「気功」流 ?金庸『笑傲江湖』のアンビバレンツ 

特記事項

個別解説一番手は、「技」派の筆頭、金庸から。
ネタ本はしばしば最高傑作とも評される、1967年の『秘曲 笑傲江湖』。

秘曲 笑傲江湖〈第2巻〉幻の旋律 秘曲 笑傲江湖〈第2巻〉幻の旋律
金 庸、岡崎 由美 他 (1998/05)
徳間書店

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作中で語られるプレ・ストーリーの中に、主人公令狐冲の属する剣術門派”華山派”にかつて存在し、骨肉の争いを生んだ「剣術」流と「気功」流の対立というものが出て来ます。

「二十五年前、わが派の武術には、の二つの流れがあった。」
(中略)
「華山派の武術の重点は、『気』にあるのだ。気功さえ会得すれば、拳法だろうと剣術だろうが、思いのままになる。これがわが派の修行の正道なのだ。ところが、一門の先達の中には、その重点が『剣』にあるとする支流があって、剣術さえものにすれば、内功が平凡でも、敵に打ち勝てると考えていた。正邪の区分は、まさにそこにある。」(2巻146?7)


ここで「気功」「内功」と言われているものが、少なくとも一面で「心」の比喩であるのは既に説明した通りです。

さて引用部分にあるように、作品の基本的な世界観は『気』≒「心」が主/正統であるとなっており、これ自体は特に最後まで否定されません。これだけだとまるで金庸は「心」派のようですが、物語はその後実に複雑で奇怪な深まり方をします。


1.主人公・令狐冲の奇剣士ぶり

この令狐冲という主人公は、颯爽とした気持ちの良い、聡明かつ愛嬌もたっぷりの好男子で、金庸の主人公の中でも屈指のバランスの取れたパーソナリティを持った人気者です。
しかし実は武術家としては逆にとてもバランスが悪く、通例通り腕を上げて無敵化はするものの、その成長過程はかなりいびつで、事実上剣術のみしか取り柄がなく、剣がないと他の武器を取っても素手の格闘でも役立たずに近いという異例の主人公です。

しかもその無敵性をもたらした剣術(独孤九剣)自体も決して正統的なものではなく、上で正道とされた土台としての気功の修練とはほとんど無関係に、ひたすら技術技術の”邪道”的なもの。
主人公に自派の正統性を侵す気はなく、また「土台としての気功の最終的有効性」という世界観そのものも決して否定されてはいないのですが、全てを忘却させる目くるめく純粋技術の快楽・スピード感に、主人公は半ば戸惑いながらも身を委ね、あれよあれよと最後まで勝ちまくります。

実はストーリーそのものが、そもそも「ヘキ邪剣譜」という伝説の究極技術教本をめぐって、武術界の有象無象のみならず上で「気功」流の正統性を熱弁している主人公の師匠までもが密かに狂奔するそういう皮肉に満ちた話なわけですが、そうした元々邪心や欲に駆られた人々の行動よりも、無欲で純真なままある意味心ならずも技術の権化として振る舞う主人公の姿に、純粋技術の抗い難い魅力が強烈な印象として残ります。

2.「気功」流という設定そのものの問題

「剣術」流と「気功」流の対置、及びそれをめぐる師匠の本音(剣術)と建て前(気功)という筋立てが、闘いにおける、ひいてはこの世における「心」の価値・位置のようなテーマをめぐって構成されていることは明らかでしょう。
しかし実際に読んでいて受ける印象としては、単に「剣術」という”技術”と「気功」という”技術”、2種類の技術の対立に過ぎないように見えるところがあったりします。「気功」は「剣術」との対比としてはそれらしく見えはしても、それ自体が「心」の比喩として十分には機能していないようにも思えます。

元々再び既に説明した通り、気/内功は「心」の比喩であると同時に物質化、非精神化でもあるので、これ自体はあり得る話です。問題はその理由または金庸の意図ですが。
後述する(&既に触れた)古龍の、心を格闘描写の中心的な要素として描き切った業績を称える立場などからすれば、要するに金庸は心については描いていない、「気功」でお茶を濁しているだけで描けていないという評価も一つあると思います。そもそもが感情描写、人間描写については平板だったり形式的だったりという傾向のある人ですし。

ただ同時にそれ以上の含意が汲み取れるところもこの『笑傲江湖』という複雑な作品にはあって、それは「剣術」流の生き残りの大師匠がとある行きがかりで主人公に施す剣術指導の内容。具体的には『型を突き詰めて型を無化する』的なそれ。

「すべて自然の成り行きに任せるのじゃ。限界にたどり着くまで行ない、限界にたどり着けば止めよ。」(2巻195)


これだけでは何のことだか分からないかも知れませんが、要するに「型」をやり切る(”限界”まで)ことによって「型」から解放され、その時全ては心のままになるというような状態について語られています。ここでは「気功」の仲立ちすらなしに、「技」「心」が矛盾なく働いています。

つまり金庸は「心」(のようなもの)を無視も軽視もしていないが、その前に「技」、物質性具体性を徹底的に展開する段階があると、そういう世界観で書いているのかなとそういう話です。あくまで予感的な書き方ではありますが。(いずれ本格的な作品論で再考予定)


とりあえずここで押えておいてもらいたいのは、金庸は「気功」≒「心」の正統性をわざわざ言挙げしているような作品においてすら、これ以上ないほど華々しく純粋技術を活躍させてしまう、技そのものの描写への独特なこだわりをもった「技」派の人であるという、そういうことです。
それが”限界”なのか性格なのか、はたまた全てを飲み込んだ上での哲学的こだわりなのかはここでは置きます。(またそうした金庸の格闘描写の特徴については、このシリーズの最後にまとめ的に。)

では続いて同じく”即物派”の夢枕獏について。


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