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頓(ひたぶる)に争力(ちからくらべ)せむ ?夢枕獏の格闘唯物論 

本朝無双格闘家列伝 本朝無双格闘家列伝
夢枕 獏 (1999/11)
新潮社

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何(いかに)して強力者(ちからこはきもの)に遇ひて、死生(しにいくこと)を期(い)はずして、

頓(ひたぶる)に争力(ちからくらべ)せむ


「技」派の2番手夢枕獏の、エッセイ風格闘技原論集『本朝無双格闘家列伝』のマクラとして使われている、日本書紀中のかの”日本最初の相撲/格闘技試合”の当事者の一人「当麻蹴速」(たいまのけはや)の言葉です。(もう一人は野見宿禰)

”頓(ひたぶる)に争力(ちからくらべ)せむ”
この言葉の力強さはどうだろう。
蹴速の首の太さや、腕の力こぶ、胸の筋肉の厚みまでが見えてきそうである。(同上)



夢枕獏についてはもう一つ印象的な言葉があって、それはちょっと前の講談社イブニング掲載の『餓狼伝』(夢枕獏原作/板垣恵介作画)中のセリフ。単行本は持ってないので正確なところは覚えてませんが、そこでこんなことが語られていました。

「格闘技で精神修養が出来るなんて、馬鹿馬鹿しい考えだ」

公平の為に僕の読解も含めてより丁寧に言うと、こういうことだったかと

「どんなものでも”精神修養”の手段にはなり得るとしても、基本的にはどこまで行っても他人をぶちのめす技術・手段である『格闘技』が、あたかも”精神修養”に適したジャンルであるかのように語られているのはナンセンスもいいところだ。」


賛否はともかくとして、まことに痛快で明快な言明だと思いました。
格闘技は力だ技だ、モノたるカラダとモノたるカラダの純粋なぶつかりあいだ。
格闘技の物質性と精神性に関する夢枕獏の基本的な立場はこうです。


そんな夢枕獏による格闘描写。
『獅子の門 朱雀編』、とある寺の境内において、潜伏中の蟷螂拳の使い手竹智完に襲いかかる追跡者の古武道萩尾流、久我重明の図。(一部割愛)

右手を内側から久我重明の抜き手に引っかけて、その軌道を外にそらした。
その時にはもう、久我重明の右肘が、顔面に向かって迫ってくるところであった。
頭を沈めて、それをかわす。
足。
拳。
肘。
足。
拳。
拳。
膝。
拳。
至近距離で、目まぐるしい打撃の攻防がやりとりされた。
三秒。
濃密な三秒だった。
どういう隙間も存在しない、固形物のような三秒。


シンプルではありますが安易に象徴化に逃げない、「描写」そのものへの情熱、意志を感じさせる、また肉とモノとカラダと、技と力と、ぶつかり合う一つ一つがビシビシと伝わって来るそういう描写だと思います。足。拳。肘。・・・・のところを音読していると、文字通り「息」が「詰ま」ります。

断わっておきますと”物質””唯物”とは言っても、一方で夢枕獏は非常に精神主義的というか求道的というかそういうところもあって、決して単なる合理主義者でも現実の平面的な描写で事足れりとするそういう作家でも全くありません。言わずもがなですが。むしろ目に見える現実の向こうを描く為に、アプローチとしてまず物質性を徹底的に捉まえるというそういうタイプかと。

格闘描写について言えば情け容赦のない即物性によるシンプルな描写は、逆説的に「人間力」を問うようなそういう面もあります。時に技が本当に技としてのみ存在して、軽佻浮薄にすら見える(笑)金庸との差もそこに求められるでしょう。
ただその「人間力」は単なる”物”に対置される一要素としての”心”などではない、そういうあたかも物質性から逃れる術があるかのように錯覚させる甘っちろいものではない。


次はある種の中間派、独特の”科学的”アプローチで「技」と「心」をバランスよく扱う富樫『ハンター×ハンター』を。


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