スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

朝生日中 

どうも放置気味で申し訳ありません。
どうやら仕事がヤマを越えたので、来週からエンジンかけ直します。
とりあえずようやく見終わった先週の朝生日中同時放送の雑感。


・中国人の議論は(クソ)丁寧

過去に散発的に朝生に出ていた中国人パネラーの発言が回りくどい/まだるっこしく感じたのは、てっきり党の意向でも気にしてるせいなのかなと思ってましたが、こうしてまとめて見るとどうやら全体的傾向、中国的知識人の癖のようで。
形から入って手続きを踏んで、しかるのちに核心的議論が開陳される、またはついに開陳されなかったりする。(笑)

「言いたいこと」や「インパクト」という”核心”と同じかそれ以上に、議論の体裁や形式がきちんとしていることが大切。
多分中国人どうしならそういうやり方の中でちゃんと応酬が成立するんでしょうが(実際本質的には日本より遥かにディスカッション大国ですし)、どうもなんかルールの整備されていない異種格闘技みたいでかみ合わないところがありましたね。かなり注意深く顔色を窺っていないと、言葉だけでは本意がどこにあるのかよく分からないことが多かったです。

ちなみに中国側の進行役として出ていた”黄海波(フェニックスTVキャスター)”の番組は、僕はBS1でちょいちょい見ていて、ある論題について賛・否それぞれ一人+中立+キャスターくらいの小規模でじっくりやるんですが、それはそれでかなり面白いし、行儀のいいまま(笑)ちゃんと激するんですよね。視聴者からの意見は明らかに日本のよりレベル高いですし。逆に朝生はもっと人数少ない方がいいんじゃないかと思ったくらい。


・「専門家の方」という言い方

その行儀の良さ、形式性は、パネラー以外の一般人も基本的に同じなわけですが、その中で特に面白かったのは「専門家の方」という言い方、及びそれへの敬意が再三語られていたこと。『田原さんは”専門家の方”が喋っているのをどうして遮るんですか?』という感じで。”批判”という以前に”驚き”というニュアンスが強かったと思いますが。

「専門家」という概念が非常に強固に生きているということ。及びそれへ最大限の敬意を示すことが習慣付けられていることを強く感じました。
上に書いたように一般人の言語的民度、それこそ「専門性」は日本より中国の方が平均して高いと思いますし、自己主張もはっきりしているでしょうが、それはそれとして権威や正統性への習慣的な従順さをやはりかなり(まだ)中国人は強く持っている。


・「素朴」と「率直」 ?”知”の主観的側面について

かなり感覚的な話なんですが。更に。
客席の日本の東大生が北京の大学生に、「今回の議論を聞いていて素朴に驚いたことや面白いと思ったことを、率直に言って下さい」みたいな質問(かなり意訳)を投げかけた時の反応が面白かったですね。一言で言うとポカーーーンという感じで。
沈黙の後促されて返って来た答えも、結局とんちんかんなもので。

思うにはっきりした、系統だった『意見』や『立場』や『問題』を言語化することには慣れていても、直観や主観を議論の場で開陳する、れっきとした”知”の問題として位置付けるという習慣を中国人は持っていないんだろうと思います。その種の偏差を抽出する訓練が出来ていないというか。常に大きな公式的枠組みを使ってしか話が出来ない

これは勿論、今まで述べて来た”丁寧さ”や”形式性””権威主義”の問題と直接関係するでしょう。頭が悪いわけではないんだけど死角や盲点が沢山ある、構造的に柔軟性が欠けている。議論の文体が限定されている。
逆に日本人は便宜的に自分の立場を公式化することが下手、臆病な気もしますが。

まあこれは「文化差」よりもやはり近代化・西洋化してからの時間の差、個人主義的な思考への慣れの差という気がします。例え資質的に客観主義的な人でも、主観主義的な”知”(それこそ僕のような・笑)に日々触れていれば、自分の中のそういう領域を意識することは自然と出来るようになるでしょうからね。


なんつうかまだ、部分的に中世を生きているような印象はありますねやっぱり。
金庸の作品なんかもそれと近・現代との接触面で書かれているような感じがします。頭は近代、体は中世というか。そこらへんの錯綜を読んでいくのが面白い。


サイトトップへ

スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://kinyo.blog66.fc2.com/tb.php/51-a0ab6dda

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。