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工藤流「念」法 ?菊地秀行『妖魔』シリーズ 

格闘描写の「技」と「心」その4。


かなり”引き”で見ないとそろそろ何の話だか分からなくなりつつありますが(笑)、頑張って最後までやってしまいます。
企画としてはちょっと無謀でしたね。大人しく金庸と古龍の直接比較に絞っておけば。
ただ最初の表自体は割りと気に入っていて、要するにある程度普遍性のある問題だと、その感覚を味わってもらいたかったというそういうことですが。例示として適切だったかはともかく。


工藤流念法とは

菊地秀行の『妖魔』シリーズの主人公、工藤明彦が操る家伝の武術で、物理攻撃をパワーアップし、異界の生物”妖魔”への有力な対抗手段でもある。「念」自体に特定の形はないが、たいていは長年その念を染み込ませた愛用の木刀”阿修羅”を通じて放たれる。
「念」とは何か・・・・は、『ハンター×ハンター』(など)のそれと大同小異なので省略。

数多あるそのテの概念の中でこの「工藤流」で特徴的だなと感じるのは、殊更”飛び道具”や”特殊技”であるというよりは、「工藤流」という古武術の総合的な体系の中に自然当然なものとして含まれているというそういう感覚。
あくまでフィクションではありますが、あたかも古武術全般には元々そういう要素が含まれていて当然であるような、そんな風景も透けて見えます。

で、ある意味それは実際にそうであるのだろうと思って、つまり古の武道家がみんな”念能力者”だったとかそんなことはないと思いますが(笑)、本稿のそもそものテーマである「技」「心」、こうした要素が分離されることなく、どちらがどちらとも言い難い状態で理論化/体系化されている、そうしたことはあるのではないかと思います。
いわゆる現代スポーツにおける、とみに批判の多い”精神論”というのは、分離した後の断片化した一要素としての「心」を強調する立場なわけですね。

・・・・一方で最近では甲野善紀さんによる、伝説の彼方に消えつつあった古武術の「技」たる物理的な部分をあえて特定的に再現した仕事(Wikiなど)が話題になりましたが、まああれはあれで。尊敬しています。

ちなみに『妖魔』シリーズでは、正に”分離”後の現象である科学の恩恵を受けた、ズバリ「超能力者」が登場して工藤流の「念」と戦う場面などもあって、そのニュアンスの違いが面白いです。


工藤流「念」法と『ハンター×ハンター』の「念」

『妖魔』/工藤流においては、『ハンター×ハンター』のような周到な基礎理論は用意されていません。「念」は「念」として固定されて、後は強いか弱いか、木刀に乗せて使うか他の方法を使うか、あるいは直接「念」じて注ぎ込むかというそういう描写があるだけ。万能化・ご都合主義というよくあるパターンに陥っている部分もないとは言えないですし。
そういう意味では平凡かもしれませんが、実際はどちらかというと『ハンター×ハンター』が非凡過ぎるのだと言うべきだと思います。

ただメインである愛刀”阿修羅”を用いた格闘描写はなかなか本格的かつ機知に富んでいて、「念」抜きで普通に優れた現代の剣豪小説として読むことも可能だと思います。
そしてその剣術/武術についてのディテールの豊かさが、結果的に「念」の威力の身も蓋もなさ、説明不足を補って、一定のリアリティを与えることに成功しているとそういうことは言えるのではないかと思います。「剣」の理≒「念」の理、という感じで。

とはいえ「念」が「念」として特権化されていること、それが物理法則には従わないかあるいは確たる法則性を持たないようにも見えてしまう神秘主義、または単に無頓着さ(笑)は、『ハンター×ハンター』の(擬似)”科学性”と比べると僕の分類では「心」派寄りに分類せざるを得ないと、そんな感じです。

・・・・印象としてはこれで結構”科学的”なんですけどね。ただ言語的にこれという説明はちょっと取り出し難い。ここらへんはあえて言語化するモチベーションの大きな源であるだろう、『ハンター×ハンター』の”ゲーム”の戦闘システム性というものの特殊事情が際立つ感じのところだと思いますが。


次は身も蓋もない代表(笑)の『ドラゴンボール』&”気”を。


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