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格闘漫画としての『ドラゴンボール』 

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格闘描写の「技」と「心」、その5。

そもそも「格闘漫画」なのかという疑問はともかくとして。(笑)
以下、限りなく単なるドラゴンボール語り。


初代ピッコロ戦・舞空術・スペック

個人的には、『ドラゴンボール』が格闘漫画として本当に面白かった、または実体があったのは、だいたい初代ピッコロ大魔王戦あたりまでかなあと思っています。
勿論その後も楽しく見てはいましたが(アニメメイン派)、それは主にキャラの魅力やお約束への愛着によるもので、戦闘そのものはどんどん抽象的&大味になっていって、一時の緊張感は失われて行ったように感じました。

・舞空術という”飛躍”

その原因またはきっかけとして、まず挙げたいのは「舞空術」の習得&汎用化です。こちらで確認したところ、時期としては2代目ピッコロ(マジュニア)戦あたりということですが、ともかく初代ピッコロ戦は”舞空術以前”最大最後の戦いと位置付けられるわけですね。

舞空術以前においても、ジャンプ力の描写とかは既に人の域を越えていて、空でも飛びそうな勢いの大げささではあったけれど、実際には飛べなかったわけです。それを如意棒の伸縮やカメハメ波の発射反動などでいちいち補うその苦労、その中に創意工夫があり、機知があり戦略性があり、一見お気楽な法螺話の中にも「格闘漫画」としての一定のリアリティがキープされていた。

だからこそ初代ピッコロ戦のクライマックス、カメハメ波の発射反動を利用しての悟空の体当たりパンチによって腹に大穴を空けられ、ついに無敵を誇ったピッコロ大魔王が倒れる描写にも、実にリアルな衝撃力と凝縮された万感の想いが感じられたのだと、そのように思うのですが。
作者自身もそれ以前に随所で(舞空術以前のほぼ唯一の飛行ツールである)筋斗雲を使えなくする設定を登場させて、そうした”縛り”を意識していたフシはありますよね。

「舞空術」そのものは恐らく数あるニューアイデアの一つとして導入されたものに過ぎないんだろうと思いますが、結果的に”格闘家”の世界を”スーパーマン”の世界に変質させる、タガを外す一歩になっ(てしまっ)た面は大きいと思います。
『大げさ』が『荒唐無稽』に”飛躍”してしまった瞬間と言うか。筋斗雲の立場はどうなるという哀しみも含めて。(笑)

・スペックの限界性の問題 ?マジュニア、界王拳、そしてスーパーサイヤ人

初代ピッコロがあれほど恐ろしかった理由は、やはり「魔族」という異種性、それによるスペック/基本性能の違いというのが、当時まだリアルにショッキングであったからだと思います。そりゃ悟空には尻尾が生えてましたし、天津飯には目が3つありましたが(笑)、それでもそれまでは結局は「人類」の範疇の戦い、(通常の意味の)天分と修行の成果の比べ合いのレベルの話であったわけです。(そして勿論戦略と)

・・・・確かに悟空の「大猿」という特例はありましたが、あの制御不能性、別モノ性は、逆に通常モードでのスペックの限界を示す縛りであったとも言えるわけで。

それがピッコロ大魔王戦後からは徐々に崩れて行きます。(年表
印象としてはまずは2代目ピッコロ”マジュニア”の扱い。確かに強いことは強いんですが、お行儀良くも天下一武闘会になんて出て来て悟空たちと”好勝負”を繰り広げて、「魔族」の威光はどこへやら、単なる”肌が緑色のちょっと変わった人”というそんな存在感。(笑)
後の”改心”なんかそれに比べたら大したことではないような気がします。

そして勿論、続くサイヤ人&フリーザとの戦いの中で登場した「界王拳」や「スーパーサイヤ人」というズバリ”スペック拡張技”。
地球を飛び越えて宇宙人たちとの新たな次元の戦いのムードを醸し出す上で抜群の効果をあげたとは思いますが、結果的にその後の次々現れる強敵たちとの戦いの実相を、要するに半ば機械的なスペック拡張競争(”スカウター”なんてのもありました)、後出し的強さの無限インフレに単純化するそうした禁断の一歩でもあったと、これはまあ多くの人が思うところでしょう。

「格闘漫画」としての『ドラゴンボール』の命脈は、事実上これによって尽きてしまった。


(補足)『Dr.スランプ』と『ドラゴンボール』

やはり書いておきましょうか”そもそも『ドラゴンボール』は「格闘漫画」なのか”問題。
つまりその前の出世作『Dr.スランプ』における主人公アラレちゃん、そのギャグ漫画らしい身も蓋もない、リアリティも脈絡もクソもない”最強”さ、その”力”が振るわれる瞬間の不条理な快感、あれを拡張したものが要するに『ドラゴンボール』なのではないかということ。

言い換えると鳥山明先生の本領は”戦い”を描くことではなくて”強さ”の表現なのではないか、そういう意味ではフリーザ、セル、ブウといった敵キャラの造形の恐ろしいまでのキャッチーさも含めて、「格闘」としての実体は失われても毎度馬鹿馬鹿しくもワクワクさせられるキャラたちの(スペック主義的な)”強さ”の表現は申し分なく成功していると、そういう風にも見ることが出来るわけで。

まあ要するに初代ピッコロ戦あたりまでの『ドラゴンボール』の「格闘漫画」としての例外的な充実を懐かしくも惜しむと、そういうことにしてもいいですが。


・・・・しまった、本題に入れなかった。(笑)


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