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水晶球に未来が映るわけ 

chrystalball

『竜の封印』の話の続き。最初に感心したポイント。

水晶球に未来は映るのか。
映る、と言えなくもない。「意識の操作”外”の予測」が見えることは考えられるし、「意識を遥かに越える量の情報の貯蔵庫」とのチャンネルに水晶球がなり得ることは確実に言える。
論理は以下の通り。

・水晶球/透明な球体は、光学的には何も映さない。従ってそれを覗き込んでも本来は何の視覚像も形成できない
・人が何かを見て意識がそれを知覚し(かけ)た時、その裏で脳はその対象を同定/認識する為に忙しく既知の情報から検索作業を行ない、意識に参照材料を提供しようとする。
・水晶球を覗き込む時、何も見えないにも関わらずそれを知らない意識は必死に何かを見ようとする。
・それに応じて脳の方も、「見えない何かに対する参照材料を探す」という不可能な作業を懸命に行なう。
・結果外界(水晶球)から視覚像形成のための手がかりを何も得られない意識は、内界(脳)が提供した参照材料、つまり自分の記憶の中のイメージの方を「見」ることになる。

・・・・まずこれが基本的な構造。

・ここに「未来」を知ろう、見ようとしている人がいる。
・その為に水晶球を覗き込むが、当然何も見えない。
・しかし脳は「未来を見たい」という意識の要求に合わせて律儀に作業を行ない、関連のありそうな情報/イメージを供給し続ける。
・十分な時間・環境下で水晶球を見続けると、供給された情報群は結び付いて組み立てられ、有意味で生き生きとしたヴィジョンに成長し、「未来が見える」。
・脳は意識が通常処理するよりも圧倒的に優れた質・量・幅の情報を有しているので、このように期せずして意識の操作よりも脳の作業の方が主体となるような状況下では、思わぬ含意に富んだあるいは冷徹で客観的な予測力を備えたヴィジョンが形成されることもある。

こんな感じ。なかなか面白いでしょ?
ちなみにこの説に従えば、色や模様付きの、つまり何かが「見えてしまう」水晶球を使うのは無意味だ、インチキだということになりますね。


まあ「未来を見る」というのは分かり易い例でしかないので、より本質的にはこうした(水晶球を覗くというような)一種の感覚遮断、外的刺激の限定を継続的に行なうと、通常は外界からの雑多でかつ(知覚可能な範囲の)決まり切った刺激への反応に右往左往している意識が、自らの脳というより巨大で豊かな情報源と直接繋がれるようになるということです。

本来意識はむしろ外界への反応の為にあり、脳もその準備に向けて用意されているのでそれはシンプルに言えば「脳の誤作動」(作者)であり、ざんない言い方をすればその時その人は”幻覚”や”妄想”に捕らわれているとも言えるわけです。
しかしやり方によっては確かにより深い知見を得るチャンスでもあり、古来様々な宗教・神秘主義体系はそれを知っていて意図的にそのテクニックを活用していた、『汝自身を知れ』というデルフォイの神託はそういう意味だとそれが作者の説くところ。

外的刺激の継続的限定、つまり”孤独”は人を哲学者にするというわけでもありますが。
僕?日常的に脳の誤作動を起こしている孤独な哲学者ですよ、はい。(笑)

(追記)
本書では特に触れられていませんが、いわゆる「想像」というのも限定的な脳の誤作動とそう考えて間違いないように思いますね。幻覚・妄想まではいかないけれど、外的刺激・情報から直には導き出せない、その分を密かに脳から融通している特殊なタイプの思考。

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