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宮本武蔵の「技」と「心」(2) 

宮本武蔵〈8〉 宮本武蔵〈8〉
吉川 英治 (1990/01)
講談社

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(1)より
七巻の解説で紹介された「技」派の面々の次は、八巻の解説より「総合」派の司馬遼太郎。


司馬遼太郎 『(真説)宮本武蔵』 (’67?)

一度短編として書いた『真説』を、新たに中編『宮本武蔵』として書き直した作品。
「技術の小次郎」「精神の武蔵」という吉川英治の構図を踏まえつつ、それを再解釈して別の枠組に組み替えて行く作業。

両極に立つ兵法の対決である。
武蔵から見れば、小次郎の兵法の「特質は技巧主義と速剣主義」で「普遍性にとぼしい」。
小次郎の「流儀の中核」たる燕返しは、速さだけの「けれん」「曲芸」で、「兵法を反射に尽きる」とする「技術至上主義」である。「ときに太刀はゆるやかでもよい、むしろゆるやかなほうがいい場合も多いであろう」と武蔵は考える。


ここ凄え突っ込みどころ満載なんですが、本題から外れるのでまたの機会に。

武蔵にとって「兵法修行の眼目」は「間合いの見切り」である。間合いとは「敵の太刀さきと自分との距離」で、これを「見切ってしまえば敵に負けることはない」。「間合いは一寸が理想」で、このぎりぎりの間合いを見切る「理法」を、武蔵は巌流島で「実証」する


具体的には

三尺一寸二分の「物干竿」より一尺長い四尺一寸八分の木刀を「天秤棒でも肩にかつぐようなかっこう」で構え、小次郎には「木太刀の長さの見当がつかぬ」。しかも、かの「勝つつもりなら鞘を捨てまいに」の一言の「調略」に乗って「怒気」にかられた小次郎は、「(通常兵器による常識的な)間合いのみに気をとられ、武蔵の持っている兵器(うちもの)に注意を払わなかった」。要するに相手の「間合いの感覚を崩す」のに成功した武蔵が勝利する。

以上の絵解きは、たしかに吉川のように「技や力の剣」にたいする「精神の剣」の勝利とするよりは理解しやすい。



・・・・まずは大司馬が、こんなに剣術の細々としたことに興味があったというのが軽く驚きですが。先生も男の子なのねというか。(笑)
更に言うなら見たところこれは結構粋な”趣向”で、確かに吉川の古典を現代化してはいるんですが、さりとて実証研究そのものではなく、吉川も典拠した『五輪書』などの史料には目を通しつつしかし事実というより吉川が描いた小説上の「宮本武蔵」「巌流島」を、想像や虚構が含まれているのは承知であたかも事実であるという”態”で、しかし論理/説明としては吉川のとは違ったより厳しい合理性で書き換えて見せたという、そういう仕事なんだろうと思います。

ある意味ではそれこそこういう『ドラゴンボール考察サイト』とか、ネット上に数多あるそのテの書き物と共通するところの多い仕事かと。オタクーっ。(笑)

それはそれとして上の司馬遼太郎の「絵解き」ですが、(「技」と「心」という視点から)要するにどういうことかと僕なりに解説してみるとこうです。

(1)まず小次郎の技術至上主義の中身を、「速さ」「反射」という形で確定/限定する。
(2)次に武蔵の剣法の真髄として「間合い(の見切り)」を挙げるが、これは小次郎のそれとは違うものの、”距離”という物理概念に根差した武蔵なりの”技術”論(「理法」)である。
(3)一方で「間合い」は距離そのものではなく、それをどう捉えるかという使い手の内面やコンディションに左右される認識作用、”心理”でもある。
(4)巌流島における両者の対決では、小次郎の”心理”を撹乱することによって「間合い」という”技術”で優位に立った武蔵が、かつ武器の長さという絶対単純な物理の裏打ちをも得て勝利を収めた。

・・・・という筋書きかと。

「技」「心」が勝った、わけではないが、「心」という要素をも加味・包含した、より包括的な武蔵の「技」が小次郎の狭い浅薄な「技」に勝ったと、そういうこと。
要は2種類の異なる技術体系の対決だとも、見方によっては心と技の対決だともそうも言える折衷的・総合的なまとめ方。


(まとめ)
気がつくと吉川武蔵そのものについて直接的には全然語っていないわけですが、なんていうか語ることがあまりないんですよね。
ここまで紹介したような吉川武蔵への様々なカウンターも、吉川英治の「見方」に反対だというよりも、むしろ吉川英治の「見方」の不在、はっきり言えば描写や説明の態をなしていないことに対する苛立ちというそういうニュアンスを強く感じます。

読んでいると部分的には、本題に関係ないところではポツポツと具体的だったり面白かったりする描写もなくはないんですが、結局は何も言っていないというか、書くと見せかけて書いていないというか、いつの間にか精神論や社会論の方になし崩しに滑って行って終わっているというそういう感じ。
それはそれで内容的にはありだと思うんですが、いくら何でも別の話じゃないの?という。

まあ根本的なことを言えば「剣豪小説」ではないのでね、「剣豪について書いた小説」ではあっても。力点が最初から違うと言えば違う。五味や柴錬と比べてはという面も。
ただ描いてるからには逃げられない、ところもあるわけで。(ここらへんはこれを”原作”とした井上雄彦『バガボンド』にも微妙なところがあると思いますが、これもまた別の機会に。)


・・・・とりあえず老人いじめ、欠席裁判はこれくらいにして(笑)、ついにラストの古龍編


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