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”ISH”について/考察(2) 

以上が僕が考えるアリソン流ないしは本来のISH概念と汎用化したそれとを区別する大きなポイントだが、ではなぜ僕はこの区別にこだわるのか。それはアリソン流のISHと一般的なISHでは、臨床的に期待される役割は基本的に同じでも、全体の風景が全く違って見えて来るからだ。

つまりアリソンのISHが存在する世界では、いずれにしろ統合の道には幾多の困難が待ち受け、現実的には失敗の可能性が少なからずあることは覚悟しなくてはならないにしても、何が正しい道なのかを完全に知っていて無私な態度でその達成に協力してくれる存在を頼りにすることが出来る。またはその背後に言わば「神の恩寵」に満たされた完成された秩序が予感される。非常に性善説的で予定調和的な世界観である。仮に今回失敗しても当然の連想として”死後の救い”のようなものも期待されるだろう。

しかし頼りにすべき”ISH”が上記の「アーサー」程度の存在でしかない場合はそうはいかない。彼らはまともに精神分析などしていたら何年かかるか分からない患者の人生に関する情報を一気に、かつかなりの確度で与えてくれ、しばしば治療方針そのものの確立さえ助けてくれるが、所詮はただの頭脳明晰で内部事情に通じた(何せ文字通り”内部”にいるのであるから)一人の人間ないしは人格でしかない。事実の誤認や解釈の歪みは避け難く混じって来るだろうし、何か超自然的な力の関与が事態を最終的に収拾してくれるだろう的な期待を抱くことも出来ない。彼らが知的であればあるほど逆に、科学と精神医学の容赦無い技術戦とそこにおける敗北の可能性のただ中に当事者たちは取り残される。

どちらが正しいなどということは僕には言う資格も必要性も無い。あえて言えば両方が正しいのだろうと思っている。アリソンにはアリソンという特異な個人に相応しいISHが見え、あるいは現れたのであり、そうでない人にはそうでないような形でのみISHらしき人格が見出された。あるいはそういう当たり障りのないタイプのISHのみが報告された。そういうことなのではないか。
アリソンにはアリソンの過剰な期待やナイーヴさが、そうでない人にはISHがアリソン的な現れ方をすることを許さないような視野や態度の限定性という問題があるのかもしれない。少なくとも僕がアリソン的なISHであったら、そこらのチンケな精神科医の前になど姿を現してはやらない(笑)。大人しく処方箋でも書いてろと話の分かりそうな奴が出て来るまで鼻毛でも抜いている。

とにかくそういう訳で既に確立した共通言語としての”ISH”という概念の価値は価値として認めるにしても、僕としてはアリソン的なISHのみをその語で呼び、それ以外のちょっと気の利いた人格程度のものとは区別したい気持ちが強くある。
治療の実際の問題としては特に上の1で述べた「全知」性、つまりその提供する情報が直接的な記憶によるものなのか推測や伝聞でつぎはぎされたものなのかというのは、場合によっては大きな違いになることもある気がする。勿論2の問題、彼らの語る認識が個性という名の偏見や自己保存の打算によって歪められていないかにも、常に警戒が必要であろう。


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