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『書剣恩仇録』各論(2) 

(1)より。


書剣恩仇録〈3〉砂漠の花 香妃 書剣恩仇録〈3〉砂漠の花 香妃
金 庸 (1996/12)
徳間書店

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1.主人公陳家洛の不人気 について


”非・キャラ小説”としての『書剣恩仇録』

『天龍八部』といえば、処女作『書剣恩仇録』で、ストーリーから構想を練る方法をとった金庸さんが、うって変わってキャラクター造形から構想に入ったと語っている作品である。

(『武侠小説の巨人 金庸の世界』)


金庸の作品が程度差はあれ、基本的に”キャラ小説”ではないということは既に書きました
当然『書剣恩仇録』もそうで、しかも上にあるように恐らく最もそうした特徴が強く出ている、つまり近代/西洋小説的な”人物描写”、「人間探求」的な志向性の薄い作品と言っていいのだと思います。

だからこの作品への後代の読者からの最も多く聞く不満、「主人公陳家洛のキャラが薄い」「感情移入がし難い」ということも、確かに”名門子弟の保守的知識人”という陳家洛個人の性格によるものも少なくはないでしょうが、基本的にはこの作品の登場人物である宿命であり、ただその個性がそれを強調している、または「主人公」という期待感がその印象を強くしているというのがフェアな評価なのではないかと思います。


キャラ(小説)と”成長”

前項の引用部分において、金庸は要するに「処女作でじっくり書き込む時間やスペースがなかったから陳家洛の”成長”が書けなかった」と言っているわけですが、本当にそうなのかなと僕は思う部分があります。
全4巻の『書剣恩仇録』と全5巻の『射英雄伝』、大して長さは違わないですし、そもそも『射』の長さは脇役の膨らませ過ぎによるところが多い(笑)とも言えると思いますし。やろうとすれば出来たはず。

理由付けとしてはむしろ、上の「ストーリーから構想を練る方法をとった」という方が本質的なんじゃないかと思います。そもそもそういう体質の作品ではなかったということ。
つまり・・・・例えば試しに幼い陳家洛が”天地怪侠”袁士霄の訓導の元、幾多の苦難を乗り越えて「成長」し、立派になってあの実際の『書剣恩仇録』の陳家洛となって現れる様子をイメージしてみても、そういうストーリーを構想しようとしても、どうもしっくり来ないんですよね。文体と合わないというか。単なる書き足しですむとは思えない。別の作品にするしかない

そもそも”成長”や(必ず)”成長する主人公”という概念自体、本質的に”キャラ小説”(と僕が便宜上呼んでいるもの)的なものだと思います。
キャラ/人物への重点的着目、そこから作者や読者の自己投影的な感情移入の受け皿として選ばれた特権的なキャラとしての「主人公」。そしてその「主人公」は何らか複雑で充実した内容の”内面”を持って思い悩み、やがて困難を乗り越えて”成長”して行くことを自明のこととして期待される。

金庸の作品は相対的には”キャラ小説”性は薄いわけですが、一方で武侠小説の近代化の推進者として、充実した内面を持って成長・変化する主人公を描こうとしていたのも明らかなわけです。
だから陳家洛についてもそういう意図や期待感は持ってはいて、それに従って読者も無意識にそういう文脈で読もうとするわけですが、実際にはそうなっていない。それはいち陳家洛の問題というよりは、作品自体にそういうキャラを住まわせる構造・空気があまりにも出来上がっていなかったということで。

要するにマズいのは俳優(陳家洛)じゃなくて作品、つまりは監督・脚本(金庸)の方だよと。
そんな話。(笑)


エリートで何が悪い?!

そうしたドラマティックに「成長」する主人公・人物を描こうとする場合、落差が大きくなる分最初の設定を低めにしておいた方が分かりやすいのは明らかで、そういう意味でエリートでボンボンの陳家洛というのは難しいキャラクターなわけです。
ただ一方で主人公サイドというものは基本的には清く正しく品が良いものでありますし、読者の願望を仮託されて活躍する都合上(笑)、ある程度調子よく強くあってもらわないと困るわけで、そういう意味でドジでノロマな亀(郭靖?・笑)と同じくらいに、恵まれたバックボーンを持った”王子様”系キャラというのも王道なわけです。そして陳家洛にも実は、本来は、そういう魅力はあったのだと思います。

思い出してみて下さい。序盤で陳家洛が紅花会の二代目を継ぐ継がないでグズグズしていた時、延々これやるのかな、でもってこいつの活躍を見るには気長に”成長”を待たなきゃいけないのかな、あるいは基本的にアムロレイ/碇シンジ的なウジウジ主人公なのかなと気が重くなりませんでしたか?(笑)
そんでもっていったん引き受けた陳家洛が妙にあっさりと手練の武芸やてきぱきとした指揮能力を見せた時、多少の拍子抜けは感じつつも正直ほっとした&そのあっさり感に痛快さを覚えたということはありませんでしたか?そんなにいつもいつも汗臭い根性物語が読みたいわけではないですよね?

だから陳家洛は陳家洛で別に良かったはずなんですよね。そういうキャラとしてちゃんと描けば。ただ金庸の方針が上手く定まらなくて、伸ばし切れなかっただけで。
後に『飛狐外伝』(’59)で再登場した時の陳家洛は、貴公子の基本性格はそのままに、結構厚みも味もある素敵なおじさん(?)として描かれていたと思います(笑)。『書剣恩仇録』(’55)での若き日の陳家洛も、同様にもう少し積極的な魅力のある人物として描かれてもおかしくはなかったはず。だから『飛狐外伝』はキャラとしての陳家洛のリベンジというか、作家金庸のお詫びというかけじめというか(笑)、そんな風なニュアンスでも読めるかなとそう思います。

(3)につづく)


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